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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

▼ノーベル賞?


予防医学のカイロプラクティック

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RMIT大学のサイトはこの字をクリックして下さい。

ノーベル賞? なぜあるんだろう??? 

いつも屁理屈を考えてしまうんですが、
どれだけ科学が発達して行けば人間は満足するんでしょうね?

人間は満足をするということが無いのでしょうか?

どんなに科学が発達しても本当に人間は幸せに成るんでしょうか?

最近の社会情勢を客観的に考えてみても、
幸せというスタイルからどんどん離れてしまっていると感じるのは私だけなんでしょうか?

別に悲観的に社会情勢を見ているのではありませんが、決して好感的に見ている訳でも無いことは確かですが。

科学と言っても 色々な分野がありますが、
実際にそれぞれの分野が 何を目標にしているんだろうかと思ってしまいます。

何かを追及するという行為は 何かにつまずいた時、
何かに苦労した時、何かに苦しんだ時、その様な事実を経験した時に、
人々はその現実から回避するための智慧を持とうと 努力して来たんだと思います。


どうも「失敗」という感覚を伴う行為があった時に、
人はその「失敗」を繰り替えさまいとして 「失敗」の原因を追求し、「もうそんな苦労は嫌だ」という思いで失敗回避の研究をし続けて来ているのかも知れません。

早く死ぬのも嫌だし、病気になって 苦しむのもイヤ。

嫌な事を経験したくないのが 人の気持ちかも知れません。

医学がここまで進歩して来たのは、
「病気で死にたくない」「早死にしたくない」という思いと共に、「病気で 苦しみたくない」という回避の思いが強いのではないでしょうか。

「生きている内が華」という思いも、
「死んでしまったら それでもうおしまい」という「 虚 無 意 識 」の考えが根底に存在しているから その様に思うのかも知れません。


医学の進歩は 本当に病気を駆逐しているのでしょうか?

また駆逐できると そう思っているんでしょうか?

どうもそうではないように思えて仕方が無いのです。

医学がとても進歩しているのは事実ですが、
それに伴って新しい病状・症状が発生しているのも事実なんです。 

どうしてそうなるのでしょうか?

現実 現在医学で病気の種類が「25、000種類」も在ると聞いています。

そしてその中で医療で対応できているのが「5.000種類」であると聞いています。

すなわち後の 二万種類は全く手が付けれないという事です。

これは何を意味して、何を示唆しているのでしょうか?

建築学や物理学、工学。
  それらの学問は物を作る、創造するという現実的な学問です。

物を作る事は 人間が持っている本能のように感じてしまいます。

でも人間の持っているその「考える」「創作・創造」というパワーは人間の本能から出ているんでしょうか? 


物を創造する事だけが人間の力ではないと思いますが、何の為に物を作るんでしょうか?

その目標は何であり、
その目標を現実化するための目的はどの様にして出来てきたのでしょうか?

我々は自分達の生活を楽にさせたいが為に 知恵を絞って道具や器具を作って来たのは事実ではありますが、果たして本当にこの創造・創作行為が人間の求めている真の姿なんでしょうか。


現実的に目の前に存在している「物質」は、本当に必要だから現れているんでしょうか? 

ただ人間が欲したから生じているんでしょうか? 

そしてその「物質」は「必要不可欠な物」なんでしょうか?

経済というお金を価値に置き換えた物々交換の社会が現在社会です。

しかしこの経済を作るために「物質」は生まれて来たんでしょうか?

それとも人が人として心を成長させるための道具とし、
お金という物質を利用して 人間の価値をその中に封じ込めてしまっているのでしょうか?


この時代に生きている我々は、
この現在社会の姿こそが 我々人間にとって必要不可欠な物であると思っているのかも知れません。 

そしてそれまでの時代の人は、
この時代から見て不便な生活をして来た 気の毒な人達として我々は考え、見ているのではないかと思います。


また現在の文明社会が 人間を幸福にさせるべきものとして、我々は固く信じているのかも知れません。

しかし本当にそうなんでしょうか?

「ノーベル」は苦労を強いられた当事の多くの肉体労働者の為にダイナマイトを研究発明しました。

しかしその後の時代やイデオロギーは
ダイナマイトを悪用し、それ以上の性能を追求して来ました。

現在ではコンピュターの発達によって、
「自分から進んで目標に向かって行かざるを得ない爆弾」まで現れて来ている始末です。

発明者は人の為と思い、善意で開発した大きな破壊力を、我々は利用してきました。

そのノーベルの善意を踏みにじり、
その恩恵を蒙って来た地球文明は、ノーベルの善意を悪用し、爆弾という破壊兵器を作って来ました。

でももし、ノーベルがダイナマイトを開発していなければ、
この社会はどう変化して来たでしょうか? この様な疑問が生じてきます。

でもダイナマイトが無くても
人類は同じ様な生き方をして来たのではないかと思います。

ダイナマイトが無くても
ダイナマイト以外の武器を開発利用して、
歴史的に人は人を殺そうとして来ているんだと思います。

それは日本の歴史を見ても、諸外国の歴史を見ても、
全て人と人との係わり合いが、争いとか戦争とか、その様な血を見なければ気が済まないとまで言えそうな、文化の作り方をして来ているからです。


お互いに気に入らなければ相手を簡単に殺してしまおうという心の常識が、人類の当たり前の考えとして備わっていたんだと思います。

いくら心の良心が備わっていても、
それを振り解いてしまって、人を殺める方に向かってしまっていたのが過去の歴史でした。

しかし過去の歴史とは言え、
現在も色濃く人間の心の中に、どかっと居座っているのも事実です。

しかし人は、破壊をする反面、物を創造し構築してきました。

そこには「環境改善」という自然との戦いのような建築作業を中心にして、創造をしてきているのも事実です。 

「干害工事」などもそうですし、ダムや運河工事もそうです。

また「万里の長城」のように、
自分を守る要塞作りにも大きな創造手法を採って、自らの文明のみならず社会生活を守るための構造物を作って来ました。

それは自然界に存在するルール、秩序と同じで、
常に破壊と創造が「社会の新陳代謝」として存在しているかのようです。

この流れは人が生きていようとそうで無かろうと、
一つの不文律として存在しているのではないかと思います。

だからこそ人は好まざるとに拘わらず、
破壊行為を行ってしまうのではないかと考えます。 

そしてその後に、新しい創造物を作ろうとしているのではないでしょうか?

そこには今までとは違う、
少しでも進歩しているモノを作ろうとするのではないでしょうか?

ノーベル ただ「ノーベル賞」の在り方は 科学全般に対してではありますが、この自然界の不可思議を研究を通じて解決して行こうとする方向にあるのは間違いの無い事実だと思います。

そして「平和賞」も人が実際にどうあるべきかを考えさせる良い機会の賞だと思います。


ただどうして科学は、この様に究極を求めるんでしょうか?

そして物質、現象社会に何を発見したがっているんでしょうか?

多くの科学者達が研究中に、
「思考不可能な状態」に遭遇し、
その過程で到達する考えがあると言われている事を私は聞いたことがあります。

それは
「究極的に研究を続けていると、どうしてもある存在を認識しないと思考の持続が出来ないことがある」と研究者達は言います。

そのある存在というのは、
それは「神の存在」だと言うのです。

「どう考えてみても、この地球上に存在している生命が、偶然に発生したとは思えないのだ」と言われています。

どうしてそのように言うように成るんでしょうか?

彼ら科学者達は
常に「根源(究極)の回答」を求めようとします。

その為にどうしても
「思考不能・理解不能」に陥る時が訪れると言われます。 この時に
人間の思考限界を感じるんだとも言われています。

その様に感じた科学者達は
「人間以外の存在を認識しないと、この生命の発生を考えることは出来ない」 とまで言われています。

そこに、
この自然そのものを形成した 「意識」 を感じない訳にはいかないと言われます。

なぜならば、
この自然界そのものが「神の存在」の姿ではないか ということを言われます。 

この考えを肯定することによって、全ての物や生命が、
「神の存在が在ればこそ生まれて来れるモノ」 だということが証明されるんだと言われます。

この自然界の秩序整然と運行している不可思議さに、疑問を持てば判るかと思います。

それはこの自然界には
「常に変らないルール、秩序」 が存在し、生命は「無秩序に現れてくる偶然の産物ではない」  ことを証明するものだと言うのです。


仮に生命が偶然に出来たのであれば、そこには
  「無秩序のルールに従って現れるあらゆる生命の印」  が無くてはならないということが言えるからだということです。

しかしこの自然界は、全く秩序正しく運行されている。

だからこそ、この世界は
「偶然に存在しているのではなく、必然的に存在するもの」として存在しているのだという証明です。

何らかの意志と意識が存在しているために、秩序が生じているのだと言うのです。

そうでない限り、この社会は無秩序の様々な生活が存在することになります。


無秩序であれば
常に太陽は東から登るのではなく、時には南から登るかも知れません。 

でも有史以前からもずっと太陽は東からしか登ることはしていません。

この事実が偶然だと無理やりに言えるかも知れませんが、
しかし偶然を証明するには、無秩序が存在する事を証明しない限りそれは不可能です。

どうしても秩序正しく運行している宇宙を、
無秩序であるということは不可能な作業であることを理解出来なければ、
何時までたっても偶然を追及することになってしまって、時間の無駄が多くなります。

だから人は
その矛盾を解明するために研究しているのではないでしょうか?

その研究を進めて行く内に
人の心にほんのりとした存在エネルギーを感じるかも知れません。
それを何と言うのかはその人の勝手でしょう。

私は「神」と呼びますが、
その意識を常に感じながら探求して行きたいと思っています。

でも探求することよりももっと大切なことがあると思います。

それは「そのままで生きる」ということだと思います。

在りのままに、心の在りのままに、
心の良心と共に、在りのままに生きること。
その中に住すること。

物理学だけではなく、化学だけではなく、
あらゆる科学の中に、神の息吹が存在していることを
ノーベル賞は言っているかも知れません。

その証明をする為にノーベル賞は在るのかも知れません。

そう在って欲しいと思っています。


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